こてゆび雑記文庫

こてゆびってオタクの雑記が溜まっていくだけです

「存在しないノスタルジー」について

おはようこんにちはこんばんはこてゆびです。

 

突然ですが、この曲を聴いて欲しいです。※半分は布教です。


www.youtube.com

 

曲名は「INTERNET OVERDOSE」、OVERDOSE(オーバードーズ)とは、薬などの過剰摂取という意味である。ODと略されて呼ばれることもしばしば。

 

YouTubeの広告で初めてこの曲を知り、気づいたら最後まで聴いてしまっていたんですね。初めてつべの広告に感謝したかもしれない。

上手く言葉で言い表せないけど、私の「癖」に刺さりました。なんでなんだろう。
聴いているだけで見えない何かに脳みそを侵食されている気がするし、纏わりついて頭から離れない。どうしたものか。

気付いたら広告から元動画に飛んでて、ド深夜に何度も繰り返し聴いていた。MVも繰り返し見ていた。クレジット見たらKOTOKOさんが歌ってたり、映像に前田地生さんが絡んでたりと、ろくにオタクしてない私でさえも知ってる人の名前がいてビビった。

 

この記事もコレを聴きながら書いている。コレを一度聞いてから、歌詞やメロディが頭から離れないのである。たすけて。

 

存在しない記憶

動画のコメントを見てみると、「00年代のインターネット」「令和になってこんな曲が…」といったようなコメントが多く見られた。 

しかし私は00年代のインターネットなど知らないのだ。その頃見ていたインターネットは精々flashで動くゲームと、ニコニコから転載されたYouTubeの動画程度*1であり、掲示板なんてものもろくに触れていない。*2

 

 

この曲には様々なネタが散りばめられているらしいが、実際私はその殆どを掴めない。パッと見わかるのは精々「ウソをウソであると見抜ける」程度である。私は当時小学生。当時のミームなんぞ知る由もない。

この曲に散らされているネタを把握できていればもっとこの曲を楽しめたのかな…と思うが、もっと昔からネットに触れていれば…とか、早く生まれたかったとか、そういうことは思わない。なぜなら、「私がいまここにいるのはあの時生まれ、あの時ネットに触れたから」と思っているから。

 

 

それと、この曲は今度発売されるゲームの主題歌らしく、そのゲームは簡単に言うと、「メンヘラ女を人気配信者に育成するゲーム」らしい。「配信者」なんて今まで興味もなかったのに、Vtuberに出会ってからはよく見てるな…なんて思ってしまった。誰かこのMVみたいに歌って踊ってほしい、名取とか。

話が逸れた。まあとにかく私自身がメンヘラというわけでもないし、OD経験者も殆ど見ていない。所謂インターネットの闇にもろくに触れておらず、ゲーム内容から想起されるような経験もないのである。それこそ本当に配信者(Vtuber)を見ている程度か。

 

というところから、このゲームや歌詞に過去の経験から共感できる部分なんてほとんどないはずなんですよね。でもこんだけ言っても謎の感情は消えない。存在しない記憶は掘り起こされるはずないのに。

 

なぜ私は存在しないインターネット・ノスタルジーから脱せないのか。

なぜ虚ろな記憶は私の脳髄を喰らい続けるのか。

 

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過去と現在の交錯した世界

この曲は平成のインターネットを詰め込んでおきながら令和に作られたものだ。よく考えたら過去のモノを見て郷愁というか、懐かしさというか、そういう代物を覚える機会って過去にもあったな…

 

鉄道の廃線跡なんかそうかもしれない。今も残っている場所は探せば結構ある物らしい。こんな感じ↓

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これは2017年に廃線となった西武安比奈線である*3。撮影時はまだ架線柱も残っており、はっきりとここに鉄道があったことを示している。

 

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一方こちらは長野電鉄小布施駅で撮影したものである。現在は長野~湯田中の一路線しか走ってないが、かつては屋代~須坂*4信州中野~木島*5といった路線を持っていた。廃線になってから表示が消されたものの跡が残っており、確かにそこに鉄道があったことを証明する材料になっている。

 

 

別の例を出そう。これは私が2018年に投稿した動画、「フクトシン・オブ・ナイツ」である。動画サイトやは削除されない限りかつて話題になった動画をいつでも見返すことができるので、かつての文化にも触れることができるし、Twitterやらも普及した今はSNSで繋がった人々からかつての様子を知ることもできる。これもまた、過去と現在の交錯の形であろう。私が今投稿している途中下車シリーズ*6、もとい音MADだって、始まりから見ていたわけじゃない。過去を知っているからこそ作れる現在があるのだ。そしてそれもまた新たな過去となり、新しい現在を作る礎になる…。

 

これらに抱く感情が、もしかしたら先述の曲を聴いた時に感じたような「存在しないノスタルジー」なのかもしれない。この音楽には、確かにかつてそういう文化があったことを証明する材料になっていたり、断片的に現在の文化への基盤になっていたりする要素があるのかもしれない。ハッキリこうとは言い難いけれど。 

中毒患者

まあ何れにせよ、私も短い期間ながらインターネットから得られる情報を過剰摂取してしまったのだろう。

現に薄暗い部屋で青白いライトを浴びながらこの記事を書いている。インターネットの過去と現在を、二次創作による自己顕示欲を過剰摂取した私は立派なインターネット依存症だ。

この曲を聴いて頭に纏わりつく何かは、過去を知って初めて得られる懐古感に似ているのだろうか。オーバードーズした時に得られる多幸感に似ているのだろうか。どちらも実際に経験してはいないので私には分からない。

 

私はいつまで幻覚を見ているのだろうか。

私が夢から覚めるのだろうか、覚めるとしたらいつだろうか。 

 

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*1:しかも見ていたのは音MADである。

*2:厨房の頃に通っていた個人サイトのBBSに何度か書き込んだ程度である。

*3:とはいえ、50年以上休止状態であり、近年は事実上廃線状態であった。

*4:屋代線のこと。2012年廃止。

*5:木島線のこと。2002年廃止。

*6:鉄道を素材にした音MADのこと